ユダヤ人はいつユダヤ人になったのか

ユダヤ人はいつユダヤ人になったのか 長谷川修一

読書時間2時間48分(4日間)
文章の難易度★☆☆(読みやすい)
内容の難易度★★★(ある程度の見聞が必要)
中東の世界史と地理に強い人におすすめ度★★★

もう何年も前になりますが、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団がマーラーを演奏した映像を観たときに、はっとしたことを覚えています。
とても特別なものだな、と。
上手いとか下手とかそんな簡単なことではなくて、演奏と作曲家の結びつきが唯一無二というか、独特な、他にない感じがしました。
論理的に説明できないのですが、何かが明らかに違う。
ウィーン・フィルのモーツァルト、ベルリン・フィルのベートーヴェンなど、作曲家の生まれ故郷の楽団がその作曲家の曲を演奏するのは聴いたことはあるけれど、イスラエル・フィルのマーラーはそれらとは違うもののように感じました。

それから、ユダヤという民族について「特別である」という印象が私の中に生まれた気がします。

ユダヤの人々は長らく国土がなく、世界各地に住んでいる、つまりどこか一か所にまとまって居住しているわけではなく、それによって周りの環境や話す言語も違うけれど、ユダヤ人である共通の強い信念や精神、思想があるように見受けられました。
他にこのような民族を私が知らないこともあり、なぜそのようになれるのだろうと思っていました。

この本は、ユダヤ人の成り立ちの歴史、文明、ヘブライ語聖書、迫害の歴史について書かれています。
紀元前からの歴史になるのですが、簡単にわかりやすく書かれていると思います。
しかし、世界史の知識が薄弱な私にとっては、あんまりピンとくる内容ではなくて。
王がいて、戦に敗れて、捕虜になって、巨大勢力に翻弄される…みたいなことは、ユダヤの人々だけでないだろう、何なら世界中で起こっていなかったか、と思うのですよ。

この本はバビロニア補囚がユダヤ人をユダヤ人たらしめる要素が大きかったのではと書いてあるけれど、私の理解が足りないせいか、やっぱりピンとこない。

バビロニア捕囚

紀元前五九七年および紀元前五八七/六年、新バビロニア王国のネブカドネツァル二世がユダ王国を征服した際、その民を首都バビロンはじめバビロニア地方に強制連行・移住させた事件

本文より

バビロニアに捕囚された人々たちは、それが神に背いた罰だと考えたようで、その反省から神から与えられた命令や掟の「律法」をまとめ、それがユダヤ人のアイデンティティを保持する装置として働いたと本には書いてあります。
ヘブライ語聖書の形成により、世界中どこでもその内容にしたがって生きることができるようになったということは、世界中に居を構えるユダヤの人々のアイデンティティの形成を大きく担ったことは想像できます。

しかし歴史が昔過ぎて、何が本当で何が妄想なのか今でも謎の部分は多いみたいですね。
モーセのエジプト脱出さえも史実かどうかわからないそうですよ。
海割りは…史実であって欲しいと…個人的には思ってしまうけれど…。

ただ、イエス・キリストがユダヤ人だったということは少なからず関与しているのかなとは思いました。

ユダヤ人を語るうえで、迫害の歴史は今尚避けて通れないけれど、ユダヤ人というアイデンティティの構築がしっかりしていることが迫害を招いたということは言えるのかもしれない。
それで迫害されれば、身内での結束は強くなるものだから、その連続で悲しい歴史が繰り返されているのかな、とも思いました。
また、共通の経験値というのはどこにいても民族のアイデンティティを強くするのかなとも思いますね。

ただ、前、イスラエルという本を読んだときに、イスラエルの問題は本当に簡単な問題じゃないなと感じて、もちろん何でも簡単なことじゃないけれど、歴史はいつまで遡って正当性があるのか、立場によって見える景色がこんなに違うのかと難しすぎて考えながら読むのをギブアップしそうなくらいだったのを思い出しました。
気持ちはわからないでもないけれど、ある一つのニュースなど見えるところだけを見て、簡単に某コーヒーチェーンのコーヒーを不買運動できるようなことではないと個人的には思っています。