奇跡の椅子

奇跡の椅子 AppleがHIROSHIMAに出会った日 小松 成美

読書時間3時間2分(7日間)
文章の難易度★★☆(ふつう)
内容の難易度★★☆(ふつう)
奇跡などないと思っている人におすすめ度★★★

「奇跡」と呼ばれるものの中には、「本当の奇跡」と「奇跡のように見えるもの」が存在する。
この本で言う「奇跡」とは後者だと思う。

本当の奇跡と言うのは、常識では考えられないような現象が起こること、因果関係がなく願った未来が突然起こることなどを指すのだと思う。
しかし、奇跡のように見えるものというのは、決して偶然や突発的に起こったものではなく、少しずつ成功に向かった要素が積み上げられたり交差したりして起こる。
多くの人は偉大な結果しか見ていないから「奇跡だ」と思うのだ。

マル二木工の椅子「HIROSHIMA」は世界的に評価を受け、Appleの本拠地カリフォルニア州のApple Parkで数千脚使用されているほどだ。
しかし、その椅子の誕生の裏には、創業以来、長い年月をかけて培われてきた「もの作り」への哲学と力量があり、経営が苦しいときでも、未来への投資を怠らなかった経営陣の英断があったという「企業再生の軌跡を描くノンフィクション」というのがこの本に書いてあることだ。

全体的に小説っぽいため、ノンフィクションだと思って読み始めると、むずがゆい。
が、すぐに慣れる。

マルニ木工の前身である「昭和曲木工場」の創業者である山中武夫氏は、当時技術難度が高かった「木材の曲げ技術」を確立。それまで手工業の域を出なかった日本の家具工業に対して、「工芸の工業化」をモットーに、家具の工業生産を目指した。
その後、1968年に開発した高級ラインのベルサイユがヒットし、日本を代表する高品質の家具メーカーの一社となった。
しかし、バブル崩壊後、苦戦を強いられ、倒産の二文字が常に目の前にある状況に陥る。
ファミリー企業であるマルニ木工の金銭面の画策、リストラ、起死回生の製品開発が描かれている。

全体的にきれいな感じに仕上がっている物語のため、苦戦はしたものの、いかに素晴らしくHIROSHIMA で復活を遂げたか、というようにも読めてしまうのだが、実際はそうではないだろう。
当時、就職するということは今よりもずっと終身雇用が保障されていたし、一人の社員の後ろには養っている何人もの家族がいた。
それを守る責任が当時の経営者にはあったのではないかと私は思う。
その社員をリストラしなくてはいけないというのは、きれいな話では終わらない。
涙を流して、もしくは怒りで震えながら会社を去った人がいる。
経営陣はこうやって自分の力量次第で、また奇跡のようなことが起こる瞬間に出会えるが、リストラされた社員はそれすら叶わない。

本では、バブル期を経ても会社の成長が続くと思ってしまった、暗転することを予測できなかった経営者の考えが甘かったと、四代目社長の山中好文氏が語っている。
前述のように私は、経営陣は雇った社員に対して大きな責任があると今でも考えているが、あのバブルを冷静に判断できた経営者は当時ほぼいなかったのではないかとも同時に思う。
あのような経済状況や社会情勢は歴史的に見ても異例だと思うし、あのバブルを経験しているゆえ、私たちは「バブルと言える好景気はいつか必ずはじける」と身を持ってわかるのだから。

この本を読んでわかることは、どんな仕事をするかということも大事だが「誰と仕事をするか」が運命を決めるということだ。
マルニ木工の一番のターニングポイントは、深澤直人氏に仕事を依頼したことだ。
HIROSHIMA は彼のデザインだ。
マルニ木工の人々は一瞬躊躇した 世界に知られた都市・広島という名前の価値を見極め、製品の名前に提案したのも彼だ。
Apple がHIROSHIMAという椅子に、デザインの他、何に価値を感じたのかは想像するしかないが、米国西海岸の企業ということを考えると、HIROSHIMA という名前について、全く考慮ゼロということはないだろう。
深澤氏はこう言っている。
「僕にとっては、ブランドカやネームバリューは重要じゃなかった。むしろ一緒にやって行く上で、人間的にお互いが慈しみ合えることが重要でした。そんな相性の良さをマル二木工には感じます。しかも、皆さん勉強家だった、やり通す胆力もある。そこへの信頼は、揺るがないです」
失われた30年で日本人が軽んじてしまった、人間にとってものすごく大切な価値観の一つが、これではないかと私は思う。
大切だと頭ではわかっているのに、お金やブランドや数値的なことだけに気を取られ、大事にしてこなかったことが結果、人間には一番大切だったことなのではないかと改めて思う。

さて今回、HIROSHIMAを実際見に行ってみた。

お店の方がぜひ座ってみるよう仰ってくださったので、お言葉に甘えてみた。
意匠という点では、私には深澤デザインを理解して感動するスキルはなかったが、座ってみるとこの椅子の良さがわかった。
座った瞬間にふわっと沈むような感覚になる。
座っている間、優しさに包まれているような気分になるのだ。
他のマルニ木工の椅子にもかけてみたが、こういう椅子は他になかった。
目には見えない確かな違いがそこにある。
HIROSHIMAが奇跡と言われる所以の何かを少しわかったような気がした。