ファウスト 悲劇第一部・第二部 ゲーテ・著、手塚富雄 ・翻訳
読書時間 | 5時間18分(12日間) |
文章の難易度 | ★★☆(内容を考えるとかなり読みやすい) |
内容の難易度 | ★★★(簡単だったら困る) |
自分がもう少し若かったらなあと思っている人におすすめ度 | ★★★ |
「時間よとまれ、お前は美しい」
ハムレットの「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」と並び、世界一有名な台詞だ。
学間に限界を感じ失望した老年のファウスト博士は、悪魔メフィストフェレスと契約し、ファウスト博士の魂と引き換えに若さとこの世のあらゆる快楽の経験を手に入れる。
人生で最高の瞬間だと思えたら、悪魔に魂を明け渡す約束をして。
その瞬間の合言葉が「時間よとまれ、お前は美しい」なのだ。
私はその昔、ファウストのあらすじを聞いた時は、人は学間を極めても、ただの快楽を求めても、人生で最高だと思う瞬間は来ない。人の役に立っていると感じた時が人生にとって尊いことなのだ、というのが物語のテーマなのだと思った。
しかし、さすが嘘か誠かIQ210と言われるゲーテ、そんな簡単な話ではなかった。
話は変わるが、社会人になって出会うステレオタイプのおじさんは、昔の話しかしない。
「昔、俺がどうすごかったのか」という話はしょっちゅうしているが、今の俺のすごい話や先週行って楽しかったところの話などは全然出てこない。
お姉さま方のバブルの気配が残る眉毛とアイシャドウにも同じ匂いを感じる。
冒頭のせりふを思い出した。
人間は、自分が一番良かったと思うところで時間を止めるのだ、と。
それは悪魔に魂を売り渡すことなのだ。
もっとも満ち足りた瞬間を理解すると同時に、人生における進化や成長を止める悪魔の呪文だ。
しかも、ファウスト博士がその言葉を放ったのは、本当に人に役に立った瞬間ではなく、自分の墓が掘られる音を、自分が言い出した土地の埋め立て工事が進められる音と勘違いしただけなのだ。
最高の瞬間すら、まやかしなのである。
思い出しついでに、頑張って古典を読んでみるか、と思った。
この本の訳語がかなりわかりやすく、ページ数は多いものの、戯曲ということもあり意外と読める。
ト書きが少なく、状況をセリフでほとんど説明する力業を使っているにも関わらず、奥深い自然の美しさや治癒力を感じられる素晴らしい文章となっている。
この本は、人間の有限性と可能性、善と悪、救済と贖罪が多層的に描かれており、人間が生きる上での真理や哲学も同様に多層的に表現されている。
つまり、あらすじやテーマを説明できるほど簡単な構造ではない。
読む人によって、大きく解釈を変える物語だと思った。
そして、ファウスト博士があの台詞を言った状況が、実際に読んでやっとわかった。
自分が、信念をもって提案したことで状況が良くなり、その成果が出ること。
自由な土地を得て、自由に生活すること、それを同志と一緒に享受すること。
そして、そうやって生きた自分の痕跡は永久に滅びないこと。
そういう幸福の予感から出た言葉が「時よとまれ、お前は美しい」だったのだ。
先に読む人によって解釈は大きく変わると言ったが、人間に必要なのは恋に溺れることや、ただ美しいだけの妻をもつこと、権力を得ることではい、というのは誰が読んでもわかることだと思う。
絶世の美女ヘレナがどこか血が通っていなく、面倒くさい陰キャに見えるのも私だけではないはずだ。
神様の台詞が人生のすべてを表現している。
「人間は努力するかぎり迷うものだ」と。
そして、どんな人にせよ、絶えず努力して励むものは救われる、ということ。
この物語が書かれたのは約 200年前で、古典を読んでいる感覚はもちろんあるが、色褪せた古い感じがしない不思議な本だった。
人間の中でずっと根強く生き続けている葛藤や真理が書かれているからなのかもしれない。
そして、この訳語版は注釈が非常に丁寧に書かれていた。
注釈を読むと、ゲーテがものすごい教養と知性があることがさらに良くわかる。
この点も、古典に対するハードルを下げてくれていたと思う。
また最後の中村光夫さんの解説がわかりやすく面白かった。
「悪魔は年をとっている。だから悪魔の云うことがわかるには、早く年をとることです」というメフィストフェレスの台詞がある。
メフィストフェレスという悪魔が理解できないと、この話を理解できないのと同じだから、年を取った方が幾分このファウストを理解できるようになるのではないのか、という内容。
私がこの本のことを思い出し、読もうと思ったのも、私が年を取って悪魔に近づいたからということなのか。
それも面白い。
古典を読む楽しさが少しわかった本だった。