本を勧めることに関するちょっとした悪口を言う回

私は勧められた本はほぼ読まない。
勧められた本を実際読むより、それを読んだ人の「どんな本で、どこが面白かったのか」を聞く方が断然興味深い。
また、ここ数年で個人的に勧められた本を無理矢理読んだ結果、私が面白いと感じた本は(以下自粛)。

自分が面白いと思った本や今読んでいる本を、気軽に人に紹介することの恐ろしさを、皆もっと知った方がいい。
(こういうサイトを運営している私がそれを言うか、というツッコミはありがたく頂戴するとする)

ある人が読んでいる本と、その本についての感想は、その人の頭の中そのものだ。
知性をそのまま表すと言っても大袈裟ではない。
難しいのは、知性は良い・悪いというような一元的に測れるものではないということだ。
偏差値のように、数値で明確に高い低いがわかるものとは大きく違う。
知性はもっと多元的である。
しかし、その知性の程度が、本とその感想でほぼ確定してしまう。
どんな難しい本を読んでいようと感想が薄っぺらであれば、寒々しい知性だし、簡潔で短い本を読んでも深い思慮をもった正直な感想が聞ければ、豊かな知性を感じるのである。

しかし「何を読むかではなく、誰が読むか」ということに単純に帰結できるわけでもない。
世の中に無駄な本はないが、今の私にとってどうでもいい本は存在する。
そのどうでもいい本を勧められると正直萎える。
あなたが素晴らしい本だと思うことは自由だが、それを相手も当然素晴らしいと感じるはずだと思って勧められることが嫌なのである。
近しい間柄だとしても、感じ方や興味を持つ何かが違うから、面白いし勉強になるのだ。
自分が良いと思っている本でも、相手にとってはピンとこない可能性をなぜ考えない。
そういう人に限って、感想を執拗に聞き出そうとし、仕方なく私には合わなかった旨を遠回しに言うと不機嫌になるのだ。
あー嫌だ。
そう、こういうところもその人の知性の鏡なのである。
これに関しては自戒も込めておこう。

しかし、32歳の頃、私は人間関係で辛いことがあって、その相談に乗ってくれた友人(彼女は私の女性の友人の中で一番頭が良い)が「これ読んでみて」と小説と漫画を貸してくれたことがあるのだが、どれもすごく良かった。
彼女の思いやりと、私に伝えたいことがよくわかる本達だったからだ。
本が心の支えになるということをその時改めて感じたのである。
彼女は、彼女の本棚にある本の中から、その時の私にとって慰めになる言葉や物語を選んでくれたのだとわかった。
こういう本の勧め方は、すごく素敵だと思った。

知性とは、優しさなのかもしれない。